今日は10月17日、沖縄そばの日です。朝の空気はひんやりしているのに、湯気の立つ一杯を思い浮かべるだけで、胸のどこかがふっと温まります。沖縄そばは、私にとって「旅の味」であると同時に、「節目の味」でもあります。季節がゆっくりと衣替えを始める頃、ことさらに恋しくなるのは、あの澄んだ出汁の香りと、噛むほどに跳ね返す麺の弾力、三枚肉のほろりとほどける甘さです。器のふちに添えた紅しょうがや、コーレーグスの小さな刺激まで、ひとつ残らず思い出せます。
沖縄そばという名前には、食べ物以上の意味が宿っていると感じます。土地の暮らしや手仕事、誇りや祈り、日常の息づかいが、その短い言葉にぎゅっと折りたたまれているのです。名前を名乗ることは、そこに流れる物語を名乗ることでもあります。もしもこの名が曖昧なまま流されていたなら、同じ味を食べていたとしても、私たちが受け取る手触りは違っていたかもしれません。麺一本、出汁一口の向こう側に、人の手と時間が確かにある――それを思い出させてくれるのが、今日という日です。
初めて本場の沖縄そばを食べたのは、夏が終わる少し前のことでした。昼過ぎの明るい食堂で、窓の外には白い雲、店の奥からは小さなラジオの音。目の前に置かれた丼の表面には、油の細かな輪がいくつも浮かび、湯気が立ち上るたびに鰹や豚の香りが混ざり合って鼻先をくすぐりました。店の方にすすめられるまま、まずはスープをひと口。声が勝手に漏れるあの感じ――「ああ、これは丁寧だ」と思う味でした。続けて麺を持ち上げると、太さが一定ではないところに手仕事の気配があって、歯を入れれば、つるり、むちり、と心地よい抵抗を返してくる。具材を順に味わいながら、途中でコーレーグスをほんの数滴。辛さというより香りの層が一段深まって、丼の中が小さく表情を変えていくのが楽しくて、最後にはスープをほとんど飲み干していました。
それからというもの、私は「今日の自分を落ち着かせたい」と感じる日に、沖縄そばを思い浮かべる癖がつきました。急ぎ足の一週間の真ん中や、季節がぐらりと揺れる端境期、気持ちが雑音にかき消されそうなとき。器のなかに静かな秩序が立ち上がっていくのを眺めながら、まずは出汁で呼吸を整え、次に麺で背筋を伸ばし、最後に丼を置く音で「よし、戻ろう」と思い直す。食べているのは麺とスープなのに、食べ終えると心の机まで拭き上げられたように感じるのです。
沖縄そばが面白いのは、正解がひとつではないところでもあります。澄んだ出汁が主役のもの、豚の旨みがぐっと前に出るもの、太い麺の豪快さを楽しむもの、上品にまとまったもの。地域や店ごとに「うちの一杯」があり、どれも違って、どれも良い。私はこの「違いが共存している」感じが好きです。食べ比べをすれば、好みはもちろん出てくるけれど、優劣ではなく「その日の自分に合うかどうか」で選べばいい。日々の暮らしも本来そうであってほしい、と一杯の麺から教わることがあるのは不思議なものです。
名前を名乗ることについて、もう少し。沖縄そばという名が定まるまでには、きっと多くの対話があったはずです。材料や製法、呼び名の線引き。妥協も、譲れない線も、丁寧に並べ直しては確かめる。最終的に残ったのは、単なるルールではなく、「これを沖縄そばと呼ぶ」という共同の合意だったのだと思います。食べるたび、私はその合意に「今日も受け取ります」と小さく頷いているのかもしれません。
大阪で暮らしていると、遠くの味が近所にやって来る瞬間がときどきあります。商店街の一角に新しくできた小さな店で、湯気の向こうの沖縄にひとっ飛び。丼を手にしたまま、扉の外に広がる賑やかな音や、行き交う人の足音に耳を澄ませると、ここがどこであっても、人が食べる風景の根っこは同じなのだと感じます。知らない土地の食べ物が、自分の暮らしのなかに居場所をつくるとき、世界は少しやさしくなる。沖縄そばの日は、そのやさしさを思い出す日でもあります。
もし今日、沖縄そばを食べる機会があるなら、ぜひ最初のひと口だけは、何も足さずに味わってみてください。次に、麺をゆっくり噛みながら、丼の景色を眺めてみてください。具の並び、スープのきらめき、湯気の立ち方。どれも同じようでいて、その日その時だけの顔をしています。途中で好みの具に箸を伸ばし、最後にコーレーグスや胡椒を少し。器の底が見えたら、どうか一呼吸おいて、作ってくれた人に心の中でお礼を。ささやかな所作ですが、一杯への敬意が自分の中に澄んだ余韻を残します。
食べるという行為は、ときどき人生の縮図になります。要るもの、要らないもの、足すべきもの、引くべきもの。沖縄そばの前では、私はいつも欲張りになり過ぎず、自分のペースを取り戻す練習をしています。今日もまた、一杯の丼から始まる小さな儀式を大切にしながら、丁寧に暮らしへ戻っていきたいと思います。名前に守られ、手仕事に支えられた味を、言葉にできないところまで受け取りながら。
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