パブロ・ピカソの誕生日。絵画は良いですね。

「Goods-Bye」からのお知らせ・ラブドール処分屋店主の雑記

今日は10月25日、パブロ・ピカソの誕生日です。絵画の歴史を塗り替えた人物を前にすると、偉人伝的な言葉を重ねるよりも、こちらの視線のほうが試されているような気持ちになります。何を「見ている」と言えるのか。どこまでが見慣れた輪郭で、どこからが自分の思い込みなのか。ピカソの絵の前に立つと、まずその問いが静かに立ち上がってきます。

若い頃の沈鬱な色調から、明るい色の時期へ、そして対象をばらして組み直す探究へ。ピカソの歩みをたどると、一人の作家が作風を変えたという単純な話に収まりません。絵を見るという体験そのものを、裏返しては確かめ、また別の角度へ押し広げていった軌跡に見えてきます。正面、側面、上から——複数の視点を一枚に折りたたむやり方は、絵の中に時間の流れを呼び込む試みでもあり、静止画の中で「ものが存在するとはどういうことか」を実験しているようにも感じます。

私が好きなのは、その発明がいつも「手の届くところ」から始まっている点です。ギター、瓶、椅子、新聞紙——日常の道具や断片が、少し角度を変えられ、形を切り出され、紙や木や絵具として重なり直される。ときに貼る、ときに塗る、ときに削る。方法は大胆でも、素材は生活のそばにあるものばかりです。 “特別なもの”で世界を作り替えたのではなく、“ふつうのもの”に別の言葉を与えていく。その距離感に、私は励まされます。

視点を変えることは、勇気より先に、好奇心の持続を要するのだと思います。最初の一歩は勢いで踏み出せても、見慣れない形に耐える根気がなければ続かない。ピカソのキャンバスにあるぎくしゃくや歪みは、未完成の無作法さではなく、「見え方を試し続ける」という態度の痕跡に見えます。わからなさを嫌わない、むしろ面白がる。できあがった答えより、組み替えの途中にある活気を信じる。その姿勢は、絵画に限らず、日々の仕事や人間関係にそのまま持ち込める学びです。

思い返すと、日常の中でも「一つの角度」に縛られがちです。言葉づかい、段取り、役割分担。慣れが安定を支える一方で、景色を固定してしまうこともあります。ピカソの誕生日にあわせて、今日は机の向きを少し変えてみる、いつもと逆の順番で作業をしてみる、メモを箇条書きではなく図形で描いてみる——そんな小さな実験をいくつか試しました。たったそれだけで、同じ仕事の中に別のリズムが生まれ、頭の中の通り道が一本増えたような感覚がありました。

もう一つ、心に残るのは「遊び」の質です。ピカソの作品には、深刻さと同じくらい、遊ぶ手つきが生きています。切って、貼って、転がして、重ねて。子どもの工作の延長線上に、強靭な構想力が立ち上がる。年齢を重ねるほど、私たちは“正しくやる”ことに力を割きがちですが、精度と遊びは対立しません。むしろ、よく遊ぶことで精度は磨かれる。遊びが残していく偶然のズレを、設計に取り込めるかどうかが分かれ目なのだと思います。

もし今日、ピカソから一つだけ所作を借りるなら、「対象をいったん分解して、別の順序で置き直す」ことを選びます。会議の議題でも、台所の道具でも、机の引き出しでも構いません。輪郭を崩して、性質を確かめ、組み替えてみる。すぐに成果が出なくても、手の中に残る感触が、次の判断の手がかりになります。見慣れたものほど、分解すると発見が多いものです。

絵画の歴史を動かしたのは、天才の閃きだけではなく、「見る」を疑い、「作る」を続けた時間だったはずです。完成品としての作品だけを崇めるのではなく、そこにたどり着くまでの試行錯誤を自分の毎日に移してみる。ピカソの誕生日は、その練習日にちょうどいい気がします。何かを正面から描き切る力と同じくらい、斜めから見直す力を持っていたい。視点を増やすことは、世界の解像度を上げることでもあり、他人への想像力を増やすことでもあるのです。

キャンバスの上で形がずれて重なり合うように、私たちの一日もまた、いくつもの視点で重ねてみれば表情を変えます。いつもと違う角度で光を当てたとき、見逃していた陰影の美しさに気づけるかもしれません。今日はそのための日。明日もまた、少しだけ配置をずらし、色を入れ替え、線を引き直しながら、自分の景色を更新していきたいと思います。


ラブドールの処分については、秘密厳守で承っています。サイズに合わせた特注段ボールの手配も可能で、目安の納期は約1週間です。送り先は大阪市旭区に加え守口市の拠点もございますが、どちらにお送りいただくかは決済後のご案内メールに記載の住所が正式指定となります。迷われている段階のご相談だけでも大丈夫です。小さな不安から、お気軽にお声がけください。

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