七五三

「Goods-Bye」からのお知らせ・ラブドール処分屋店主の雑記

今日は11月15日、七五三の日です。ニュースやSNSで晴れ着姿のお子さんの写真を見かけて、「ああ、今年もこの季節が来たのだな」としみじみ感じました。神社の石段を、まだ少し大きめの草履で一生懸命のぼっていく小さな背中は、見ているだけでこちらの頬がゆるみます。「節目を祝う」「成長を見守る」という言葉が、これほどよく似合う行事はなかなかないように思います。

自分自身の七五三を思い出すと、細かいところはあいまいになっているのに、空気の感じや着物の重さだけは、不思議とよく覚えています。朝から家の中がいつもと違う慌ただしさで、母が着付けの準備をしながら「じっとしててや」「もう少しだけ」と言っていたこと、祖母が「かわいような、立派になったような」と笑いながら何度も頭をなでてくれたこと。鏡の前に立たされて、いつもとは違う自分の姿を見せられ、少し恥ずかしくて、でもどこか誇らしいような、複雑な気持ちになったのを覚えています。

着物の帯は、子どもにとってはなかなか苦しいものでした。胸のあたりがぎゅっと締めつけられ、「早く終わらへんかな」と内心で思いながらも、大人たちが「きれいやね」「よう似合ってる」と褒めてくれるので、「しんどい」とは言い出せませんでした。それでも、草履を履いた足で、一段一段石段をのぼっていくと、どこか自分が「特別な日」を歩いているのだという感覚があったように思います。

神社に着くと、境内には同じように晴れ着姿の子どもたちが何人もいて、それぞれの家族が笑顔で写真を撮っていました。あのときの空気には、不思議な「やわらかさ」があったように感じます。親も祖父母も、普段より少しだけ丁寧な言葉遣いで、子どもに話しかけたり、手を引いたりしている。日常の延長でありながら、どこか皆が「節目」というものを意識している。その雰囲気に、小さな自分は気づいていたのかもしれません。

祈祷を受けている間、神主さんのお祓いの動きや、祝詞の声はほとんど意味が分かりませんでしたが、それでも厳かな空気だけはしっかりと胸に残りました。いつもは遊び回っている自分が、このときばかりは静かに座って、じっと前を向いている。そんな自分を、大人たちが優しいまなざしで見守っている。照れくさいような、くすぐったいような感覚とともに、「自分は大事にされているのだ」ということだけは、幼いなりに伝わってきた気がします。

その帰り道に買ってもらった千歳飴の袋も、よく覚えています。細長い飴そのものよりも、袋に描かれた鶴や亀、松竹梅の絵が妙に印象に残っています。「長生きしますように」「すこやかに育ちますように」という願いが込められていると聞いても、子どものころは「こんなに長い飴を食べきるのが大変そうやな」と別の心配をしていたように思います。それでも、何度かに分けて飴をかじりながら、「これは七五三の飴や」とちょっと自慢げな気持ちになっていました。

今になってあらためて振り返ると、七五三という行事は、子どものためだけではなく、大人のための節目でもあるのだと感じます。親にとっては、「ここまで無事に育ってくれてありがとう」と胸の中でつぶやく日であり、祖父母にとっては、命のバトンが次の世代へとつながっていくことを実感する日でもあるのでしょう。大げさな儀式でなくとも、「この子はここまで来た」という事実を確認し合うことで、家族の心の中にひとつの区切りがつけられるのだと思います。

節目を祝うことは、過去を振り返ると同時に、「これから」をそっと見つめることでもあります。これまでの○年を無事に過ごしてきたという安堵と、これから先の長い時間を思うときの不安や期待。その両方が混ざり合う瞬間にこそ、「成長を見守る」という言葉の重みが宿っているのだと感じます。

年齢を重ねると、「何歳になったから」「何年目だから」といった節目の数字に、それほどこだわらなくなってきます。それでも、ときどきこうして昔の写真や記憶をたどると、自分の人生にも、小さな七五三のような節目が、いくつもあったことに気づきます。進学、就職、引っ越し、人との出会いと別れ。どれもそのときには精一杯で、あまり「行事」のようには感じていなかったかもしれませんが、振り返ればはっきりとした区切りとして心に残っています。

こうして考えると、あのとき自分の晴れ姿を見守ってくれた大人たちの存在は、本当に大きなものでした。こちらは千歳飴や着物に気を取られていただけかもしれませんが、大人の側は、その日までの体調のことや、写真館や神社の段取り、着替えや移動の準備など、見えないところでたくさんの気遣いを重ねてくれていたはずです。子ども心に、「今日は自分が真ん中にいる日だ」となんとなく分かったのは、その気遣いがそっと背中を支えてくれていたからなのでしょう。

今、町で七五三の家族連れを見かけると、あのときの自分と、あのときの父や母、祖父母の気持ちが、少しずつ重なって見えてきます。手を引かれて歩く子どもの表情、その横でカメラを構えたり、着物の裾を直したりしている大人の姿。一瞬一瞬はささやかな光景ですが、その中に「節目を祝う」「成長を見守る」という思いがしっかりと息づいているのだと思います。

七五三という行事が教えてくれるのは、人の成長には「見守る時間」と「祝う時間」の両方が必要だということかもしれません。毎日の暮らしの中で、ただ無事に一日一日を積み重ねていくこと。その途中で、ときどき足を止め、「ここまで来たね」と笑い合える時間を持つこと。その両方がそろって、初めて心の中に「育ってきた」という実感が残るのだろうと思います。

今日という日に、自分自身の七五三を思い出しながら、あのときの小さな自分にも、見守ってくれた人たちにも、そっと「ありがとう」と伝えたい気持ちになりました。そして、これから先の自分の人生にも、ささやかでも節目を祝いながら歩んでいけたらいいなと、静かに願っています。

七五三のことを思い返していると、「節目を祝う」「成長を見守る」という行為は、子どものときだけでなく、大人になってからも形を変えながら続いているのだと感じます。これまでそばに置いてきたものを手放すことも、そのひとつのかたちです。ラブドールの処分についてご相談くださるお客様の中には、「もう自分の暮らしには合わなくなってきた」「環境が変わったので区切りをつけたい」とお話しされる方が多くいらっしゃいます。それは、過去を否定するのではなく、自分の今とこれからを見つめ直す、静かな節目の選択なのだと思います。

当方では、そうしたお気持ちに寄り添いながら、ラブドール処分を秘密厳守にてお手伝いしています。サイズに合わせた特注段ボールのご用意が可能で、通常はおよそ1週間前後でお届けいたします。受け取り拠点は大阪市旭区守口市にあり、どちらへお送りいただくかは、決済完了後にお送りするご案内メールに記載の住所が正式な送り先となりますので、その宛先をご確認のうえ発送いただければ安心です。梱包がご不安な場合には、簡単なガイドもお渡しし、できるだけ負担なく進めていただけるよう配慮しております。

七五三で子どもの成長をそっと見届けるように、ラブドールを手放すときもまた、その方の歩みが次の段階へ進んでいくひとつの節目です。「迷っている段階だけれど話だけ聞きたい」「見積りだけ知りたい」といったご相談でも、もちろん構いません。無理に急がせることはいたしませんので、お気持ちが整ったタイミングで、また改めてご連絡いただければ大丈夫です。これまでの時間に敬意を払いながら、新しい一歩を踏み出すお手伝いができれば幸いです。

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