今日は12月6日、「音の日」そして「シンフォニー記念日」でもあるそうです。どちらも「音」や「音楽」にまつわる日だと思うと、普段あまり意識していない耳の記憶が、ふっと蘇ってきます。目で見る景色は写真や映像で残しやすいですが、耳で聞いた音の記憶というのは、とても曖昧でありながら、不意に心のなかを揺らしてくる不思議なものだと感じます。
子どものころを思い返すと、最初に「音」というものを強く意識したのは、テレビでもラジオでもなく、家の中にあった小さなカセットデッキでした。再生ボタンを押したときのカチッという感触、テープが回るわずかなモーター音、巻き戻しや早送りでキュルキュルと音が変わる感じ。今思えば決して高級な機械ではありませんでしたが、あの箱から音楽が流れ出す瞬間、世界が少し広がるような気がしていました。
大阪で育った私にとって、外の音も大切な“音風景”の一部でした。朝の商店街のシャッターが開く音、自転車のブレーキのきしむ音、パン屋さんのオーブンのタイマー、学校のチャイム、踏切の警報機、遠くを走る電車の音。どれも当たり前すぎて、わざわざ耳を澄ませたことはありませんでしたが、今ふと目を閉じると、それぞれがはっきりとした“音の形”を持っていたことに気づきます。
「シンフォニー記念日」という言葉からは、もう少しあらたまった音の記憶も思い出されます。学生のころ、学校の行事でクラシックのコンサートに連れて行ってもらったことがありました。場所は、たしか大阪のホールだったと思います。照明が落ち、ステージにオーケストラのメンバーが次々と現れ、楽器の音を合わせ始めるあの時間。ヴァイオリンやクラリネット、ホルン、それぞれがバラバラに鳴っているのに、次第にひとつの和音に近づいていく瞬間の空気を、「きれいだな」と感じたのを覚えています。
それまでは、音楽といえば歌詞のある歌ばかり聴いていましたが、シンフォニーには言葉がありません。それでも、静かな箇所では息をひそめたくなり、盛り上がるところでは胸が高鳴り、金管が強く鳴り響くと少し目頭が熱くなりました。何を表現しているかがはっきり分からなくても、「今ここで、この瞬間にしか鳴らない音」が、ホールいっぱいに広がっている。その事実に、子どもながらに圧倒されたのだと思います。
年齢を重ねるにつれて、音の好みも少しずつ変わってきました。若いころは、テンポの速い曲や、歌詞が前面に出ている音楽をよく聴いていましたが、最近は、ピアノソロや弦楽四重奏のような、静かめの音楽を流している時間が増えました。それは、単に落ち着きたいからというだけでなく、自分の中の“雑音”を少し弱めてくれるような気がするからかもしれません。忙しい日には、頭の中でいろいろな思考や不安が飛び交いますが、それらをいったん後ろに下げてくれるのが、静かな音楽の役割のように感じています。
一方で、完全な「無音」もまた、とても貴重な時間です。家の中の家電の音や外の車の音が少し落ち着いた夜更け、ふと何の音もしない瞬間が訪れることがあります。そのとき、耳はいつもより敏感になり、自分の呼吸の音や、時計の針のわずかな動きに気づきます。音の日である今日は、そうした「音のある静けさ」と「音のない静けさ」の両方に、少し意識的でいたいと思いました。
音というのは、不思議なもので、自分では忘れてしまったはずの記憶を、急に引き戻してくることがあります。昔よく聞いていた曲がたまたま流れてきたとき、その当時の部屋の匂いや、窓から見えた空の色、人との会話の断片までもがよみがえることがあります。「あのころ、こんな気持ちだったな」と、少しだけ当時の自分を抱きしめてあげたくなる瞬間です。
逆に、今の自分が日々聞いている音は、いつか未来の自分にとっての“トリガー”になるのかもしれません。パソコンのキーを打つ音、スマホの通知音、電子レンジの終了音、コンビニのレジの機械音。少し味気ないようにも感じるこれらの音も、振り返ったときには「2020年代の音」として懐かしく思う日が来るのでしょう。
音の日、シンフォニー記念日の今日、私はいつもより少しだけ耳を意識して過ごしてみました。朝、窓を開けたときに聞こえてくる外の車の往来、歩道を行き交う人の足音、どこかの家から漏れてくるテレビの音。昼間には、仕事の合間に小さくクラシックを流し、弦の音に合わせて呼吸を整えました。夜になれば、湯気の立つ鍋のぐつぐついう音と、お箸が器に当たる小さな音が、ささやかな生活のリズムとして聞こえてきます。
どんな音の中で暮らしたいかを考えることは、どんな生活を大切にしたいかを考えることと、案外近いのかもしれません。にぎやかな街の音が心地よいときもあれば、静かな部屋で、紙をめくる音だけが聞こえる時間を求めるときもあります。その日の自分に合った“音の濃度”を選べるようになっていくことも、大人になるということの一部なのだと思います。
今日は、耳から入ってくるものをていねいに味わいながら。明日の自分が、今日の音をどれだけ覚えているかは分かりませんが、「この日をこんな音と一緒に過ごした」ということだけは、きっとどこかに残っていくはずだと信じて。

