冬至に。柚風呂などゆっくり過ごす日。

「Goods-Bye」からのお知らせ・ラブドール処分屋店主の雑記

今日は冬至。一年でいちばん日が短い日だと思うと、朝の薄明かりにも、夕方の早い暮れにも、どこか「区切り」の気配が漂います。大阪の空気はきゅっと乾いていて、鼻先が少しだけ痛いほど。昼間に用事を済ませようと時計を見れば、もう西日が部屋の床を斜めに切っていました。光の角度が変わるだけで、同じ部屋が違う場所のように見えるのが不思議です。

冬至は、太陽がいちばん低くなる日であり、明日からほんのわずかずつ昼が長くなる日でもあります。「減る」の終わりと「増える」の始まりがくっついている日、と言い換えると腑に落ちます。何かを手放すことと、何かを迎えることが、いつも背中合わせにあるのだと教えてくれる暦です。

子どものころの冬至の記憶は、台所の湯気と南瓜(かぼちゃ)の甘い匂いです。祖母が炊いてくれた南瓜のいとこ煮(小豆と一緒にことこと煮たもの)は、柔らかくて、噛む前にほろりと崩れるのに、口の中ではちゃんと南瓜らしい香りが残りました。「この日食べると、風邪ひかへんのや」と祖母は笑っていましたが、理屈は分からなくても、体が温かくなる記憶は今も強く残っています。大人になった今は、少し塩をきかせて甘さを控えめに、皮目を崩さないよう鍋の中でそっと扱うのが自分のやり方。煮上がりにほんの少しだけ醤油を落とすと、急に締まった顔になるのが好きです。

もうひとつの冬至の習わし、柚子湯。銭湯で丸ごとの柚子が湯船にぷかぷか浮かんでいた光景を覚えています。家では輪切りにした柚子を布袋に入れてお風呂へ。指先がふやけるころ、浴室いっぱいに広がる柑橘の香りが、胸の奥の緊張をゆっくりほどいてくれます。忙しい年の瀬に、今日だけは意識して“温まるために湯に浸かる”。それだけで眠りの質が少し変わるのだから、習慣の力は侮れません。

冬至は「養生」の日でもあると思います。よく眠る、よく温める、よく深呼吸する。難しいことはせず、体の低いところから順番に温め直す。朝の白湯、昼の肩回し、夜の湯船。仕事の段取りも今日は一歩引いて見直し、明日に回していいものは潔く回す。短い昼に合わせて、やることも短く整えると、心まで静かになります。

午後、買い物ついでに商店街を歩くと、魚屋の店先ではブリがきれいに並び、八百屋には丸い柚子がかご一杯。年末の足音が少しずつ大きくなっています。帰り道、夕焼けのグラデーションが思いのほか長く続いて、足を止めました。日が短い分、光の密度が濃く感じられるのかもしれません。短いからこそ、丁寧に味わえる時間がある——冬至はそんなふうに暮らしの速度を教えてくれます。

この日を、小さな棚卸しの起点にするのも良いと思いました。机の上の“未完の山”を三つに分ける——今日やる、年内で十分、年越しでよい。メールは重要な三件だけ先に返し、それ以外は“明日以降に再確認”の箱へ。曖昧を減らすと、頭の中の暗がりにも少し光が差します。光は勝手には増えませんが、受け取り方は工夫できる。冬至の教えは案外実務的です。

夜は南瓜のいとこ煮と、少し生姜を利かせた汁物、あとは白菜と豚の重ね蒸しにしました。湯気の向こうで、家の音が静かに重なります。箸が器に当たる小さな音、鍋のぐつぐつという音、窓の外を通り過ぎる自転車のブレーキの音。派手さはなくても、落ち着く音ばかり。食後に柚子湯に入り、上がってから湯上がりの水を一杯。体の中心がきちんと温まっている感覚は、安心に直結します。

一年の中でいちばん日が短い今日を、特別なイベントではなく、体と生活のリズムを整える日に当てる。そうして「明日から少しずつ明るくなる」という見通しを、暦と体感の両方で受け取る。明確な目標より、“少しずつ”の積み重ねを信じられるようになるのも、大人の学びかもしれません。

窓の外はもう真っ暗ですが、暦の上ではここが折り返し。明日の光は、今日よりわずかに長い。この微差を信じて、無理をせず、焦らず、温めながら、年の瀬を進んでいこうと思います。今日は早めに灯りを落として、深めの眠りへ。おやすみなさい。

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