今日は、サンフランシスコ講和条約発効の日です。
「主権回復」という言葉で語られることの多い日ですが、その実感は、きっと一様ではなかったのだろうと思います。大きな区切りは、はっきりとした終わりというよりも、むしろ“少しずつ変わっていく感覚”として訪れることが多いのかもしれません。
何かが終わるとき、必ずしも劇的な変化が起きるわけではありません。
むしろ、その直後に訪れるのは、拍子抜けするほどの静けさだったりします。
昨日までと同じ朝が来て、同じように人が行き交い、同じように時間が流れていく。ただ、その中にわずかな違いが混ざっている。
大阪の朝も、そんなふうに始まっていました。
四月の終わり、空気はすでに春を越えかけていて、どこか軽く、少しだけ乾いた感じがあります。新しい季節へ移る手前の、あの独特の“定まらなさ”が漂っていました。
区切りというものは、線を引くように明確に現れるものではなく、
気づけば「ああ、もう戻らないのか」と感じる瞬間としてやってくるのだと思います。
たとえば、ある習慣をやめたとき。
その直後は違和感が残りますが、数日経つとそれが当たり前になっていく。
変化は一瞬で起きたように見えて、実際にはじわじわと浸透していくものです。
歴史の中の出来事も、同じだったのではないでしょうか。
講和条約の発効というひとつの線が引かれたあとも、人々の生活や感覚は、ゆっくりと変わっていったはずです。昨日までの延長線の中で、少しずつ違う方向へと流れていく。
最近、「整える」ということを考えるとき、
はっきりとした“完成”よりも、この曖昧な移行の時間のほうが大切なのではないかと感じています。
何かをやめたあと、すぐに次を決めなくてもいい。
区切りをつけたあと、そのまま少し漂ってみる。
その余白の中で、自分の状態がゆっくりと変わっていくのを待つ。
それは、効率のいいやり方ではありませんが、
どこか自然で、無理のない形のように思えます。
夕方、空の色がゆっくりと沈んでいくのを見ていました。
昼と夜のあいだの時間は、どちらにも属していないようでいて、確かにそこに存在しています。はっきりとしないその感じが、妙に落ち着くことがあります。
区切りのあとにあるのは、すぐに始まる新しい何かではなく、
まずは静けさなのかもしれません。
その静けさを急いで埋めようとせず、
少しだけそのままにしておく。
今日は、そんな過ごし方を選んでみました。

