2026年10月26日の日記
10月26日は「柿の日」です。
1895年のこの日、俳人の正岡子規が奈良を訪れ、有名な句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を詠んだとされることにちなんで制定された記念日です。
この句は、俳句に詳しくない人でも一度くらいは耳にしたことがあるのではないでしょうか。
柿を食べていると、法隆寺の鐘が聞こえてきた。
言葉にすれば、ただそれだけの出来事です。
何か大きな事件が起きたわけでもなければ、特別な人物が登場するわけでもありません。
それなのに、130年以上経った今でも、多くの人がこの句を知っています。
考えてみると、不思議なことです。
私たちは普段、何かを記憶に残そうとするとき、特別な出来事を思い浮かべます。
旅行に出かけたこと。
大切な人と会ったこと。
仕事で大きな成果があったこと。
何かを始めたり、終わらせたりしたこと。
もちろん、そうした出来事は記憶に残ります。
けれど、実際に昔のことを思い出してみると、案外どうでもよさそうな場面が、妙にはっきりと残っていることがあります。
子どもの頃、学校から帰る途中に見た夕焼け。
家の台所から漂ってきた夕飯の匂い。
冬の朝、冷たい空気の中で吐いた白い息。
夏休みの終わりに聞いた蝉の声。
何年も前のことなのに、ふとした瞬間に、当時の空気まで思い出すことがあります。
記憶というのは、出来事の大きさだけで決まるものではないのでしょう。
特に、食べ物と記憶の結びつきは面白いものです。
ある料理を食べると、昔住んでいた場所を思い出す。
懐かしいお菓子を見かけると、子どもの頃のことが浮かんでくる。
同じような味のものは他にもあるはずなのに、なぜか特定の食べ物だけが、特定の時代と結びついています。
柿も、そんな食べ物の一つかもしれません。
最近では果物も一年を通していろいろなものが手に入りますが、柿は今でも秋を強く感じさせる果物です。
スーパーの売り場に柿が並び始めると、ああ、もうそんな季節になったのかと思います。
夏の間は桃やスイカが並んでいた場所に、柿や梨、リンゴが並ぶ。
売り場の顔ぶれが変わるだけで、季節が進んだことを実感します。
昔は今ほど冷暖房が整っていたわけでもなく、季節によって食べられるものも、暮らし方も大きく変わっていたのでしょう。
秋になれば秋のものを食べ、冬になれば冬のものを食べる。
季節はカレンダーで確認するものというより、身体で感じるものだったのかもしれません。
大阪でも、十月の終わりになると、ようやく秋が深まってきたと感じます。
日中はまだ暖かい日があっても、夕方になると空気が変わります。
日が暮れるのも早くなり、ついこの間まで明るかった時間に、街灯がつき始めています。
商店街を歩けば、店先に秋の食材が並び、飲食店のメニューにも季節のものが増えてきます。
毎年同じように季節が巡っているはずなのに、今年の秋は今年しかありません。
去年と同じ道を歩いていても、去年とまったく同じ景色を見ているわけではないからです。
店が変わっていたり、建物が新しくなっていたり、いつも見かけていた人を見かけなくなったり。
街は少しずつ変わっていきます。
それでも、秋になると柿が並び、夕方の空気が冷たくなる。
変わっていくものと、毎年繰り返されるもの。
その両方があるからこそ、季節というものは懐かしく感じられるのでしょう。
ところで、正岡子規の句には、もう一つ面白いところがあります。
それは、柿を食べたことだけでも、鐘の音を聞いたことだけでもなく、その二つが一つの場面として結びついていることです。
味覚と聴覚。
まったく違う感覚が重なることで、一つの情景が生まれています。
私たちの記憶も、案外そういうものなのかもしれません。
何を食べたかだけではなく、そのとき誰といたのか。
どんな天気だったのか。
どんな音が聞こえていたのか。
そうしたものが重なり合って、一つの思い出になっていきます。
そして、その場では特別だと思わなかったことが、何年も経ってから大切な記憶になることがあります。
そう考えると、日常の何気ない時間も、少し違って見えてきます。
毎日同じように食事をして、仕事をして、家に帰る。
特に変わったことのない一日だったと思っていても、その中の何かが、何年か後の自分にとって懐かしい記憶になるかもしれません。
もちろん、だからといって毎日を特別に過ごさなければならないわけではありません。
むしろ、特別にしようと思わない時間の中にこそ、後から思い出す風景が残っているような気もします。
十月も残りわずかとなりました。
もう少しすれば十一月です。
今年もあと二か月ほどで終わります。
ついこの間まで暑さの話をしていたのに、これからは冬の寒さを気にする季節になります。
一年というのは、振り返ると本当に早いものです。
けれど、その間には数え切れないほどの食事があり、会話があり、何気ない景色があったはずです。
そのほとんどを、私たちは忘れてしまいます。
それでも、何かの拍子に思い出すことがあります。
柿の味かもしれません。
夕方の鐘の音かもしれません。
あるいは、昔よく通った道の匂いかもしれません。
正岡子規が残した一句が、今も秋の風景を思い浮かべさせてくれるように、私たちの何でもない日常にも、後から振り返ると忘れがたい瞬間があるのでしょう。
今日は柿の日。
せっかくなので、旬の柿をひとつ食べてみるのもよさそうです。
甘いか、少し渋いか。
柔らかいか、歯ごたえがあるか。
そんなことを感じながら食べるだけでも、十分に秋らしい時間です。
そして何年か先、ふと柿を口にしたときに、2026年の秋を思い出すことがあるかもしれません。
そのとき、今の自分がどんな毎日を送っていたのか。
案外、思い出すのは大きな出来事ではなく、今日のような何でもない一日なのかもしれません。

